焼酎の歴史

焼酎とは.....

焼酎はもと『焼酒』と書き『酎』と書くのは
白酎[パイチュ]・老酒[ラオチュ]の発音から来たものです。
『焼』は『やく』『たく』の意、酎は『濃い酒』『三度重ねて醸した酵酒』との意味です。
即ち焼酎とは『たいてい濃縮した酒』のことです。

焼酎がどのように伝わり広まったのでしょうか

1477年 朝鮮の済州島から船出したミカン運搬船が難破して琉球列島に漂着し、その際、見聞きした15世紀の沖縄の生活を「季朝実録」に残しています。 その中で、”味は朝鮮の焼酎に似て何杯か呑むだけで大酔いするほど強い酒であったと表記されています。

1515年
(永正12年)
琉球王府から島津藩への進物の中に「唐焼酎一壷、老酒一壷、焼酎一壷」が含まれていたとあり、この焼酒が日本本土での最も古い記録となっています。

1546年
(天文15年)

ポルトガル貿易商(ジョルジュ・アルヴァレエン)の著書"日本報告"に薩摩の米焼酎についての最初の記録を残しています。
1559年
(永録 2年)
大口市郡山八幡神社にて『焼酎』の文字が記され、この当時より薩摩のこめ焼酎は、すでに庶民に知られた酒となっておりました。また、記された『焼酎』の文字は現存する焼酎という文字の日本最古のものです。

1597年
(慶長 2年)
よだれかけ草子に「三重の酒といふことあり酒を煎じてそのいきの雫を受けとめて、それをまた三度まで煎じ返したるをいう」とあり、この時代より焼酎がかなり普及していたことが分かります。

1605年
(慶長10年)

さつま芋が琉球王の命により「明」より琉球へと持ち込まれました。
1609年
(慶長14年)

島津氏の琉球入りにより琉球は島津領となります。以来、琉球は膨大な貢納を義務けられその中に琉球酒も含まれていました。
1688年頃より 焼酎は元禄時代以後、日本中に普及してゆきました。

1705年
(宝永 2年)
南薩地区の漁民で、『前田利右衛門』により琉球からさつま芋が持ち込まれ栽培環境の優位性により急激に普及致しました。それによりこめ焼酎からさつま芋を使用した唐芋焼酎へと変わってゆきます。

1871年
(明治 4年)
明治政府により届け出と免許料(十両)納付による酒づくりが開始されました。

1899年
(明治32年)
自家用焼酎の製造が全面的に禁止され、それにより密造が横行し自家用焼酎の共同製造を認める体制となり、それによりこの頃より芋焼酎の市販が始まりました。

1911年
(大正 2年)
鹿児島税務監督局の山下筆吉、河内源一郎らの研究により泡盛の黒麹菌が広く普及し、南九州の焼酎製造技術は格段に向上しました。また、この頃から甲類焼酎の普及により業界は混乱し始めました。

1924年
(大正13年)
河内源一郎は、黒麹菌の中から、突然変異の河内白麹菌を発見し、現在は沖縄県を除くほとんど全国の焼酎業者に普及しています。

1930年頃 戦時中の米不足により、こめ麹芋焼酎から、いも麹芋焼酎へと生産体型が変化していきました。いも麹焼酎に関しては、後に途絶えることとなります。しかし最近「いも麹焼酎』が復活しました。

1945年
(終戦)以降
終戦直後、焼酎甲類は日本高度経済成長とともに全盛を迎えますが、昭和34年をピークに降下の一途をたどってきました。乙類焼酎に関しては、焼酎のコクや甘さが多くの人に受け入れられつつあると共に健康酒のイメージから、.近年着実に人気をつかみ始めています。現在では焼酎ブームと言われるほどの勢いで、今後の焼酎業界に目が離せません。
それにより、現在では清酒の麹を使用した芋焼酎(富の宝山・黄麹蔵)や戦時中の米不足に造られたいも麹芋焼酎(芋麹全量・いも麹芋)など様々なタイプの焼酎が造られ始めています。